WebMasterのmaroが独断と偏見でお送りする・・・
太鼓コラム
このページは、不定期に更新され、前へ前へと書き足されていきます。
初めて読む方は、ページの最後からお読みください。

目次
第1話:けやき (1999/08/07) 第2話:えどchan (1999/08/17) 第3話:リサイクル (1999/08/18) 第4話:手作り (1999/08/23)
第5話:消耗品 (1999/08/24) 第6話:名前 (1999/08/26) 第7話:サークル (1999/09/03) 第8話:ジレンマ (1999/09/04)
第9話:ハプニング (1999/09/07) 第10話:太鼓症候群 (1999/10/26) 第11話:パフォーマンス (1999/11/24) 第12話:ハレ (2000/01/26)
第13話:テンポ (2000/05/02) 第14話:ハプニング2 (2000/05/08) 第15話:恐ろしい (2000/07/12) 第16話:必要条件 (2000/10/04)
第17話〜

必要条件
さしぶりのコラム更新である。どれくらい久しぶりかと言えば・・・・・・記入日付を見ていただければ判るくらい久しぶりである。
それはさておき。
「文章書き」が本業では無い私だが、このコラムを作り始めた頃には、多少なりとも「継続」する自信はあった。いや、それは「自信」などという確固たる物ではなく、ただ単に「なんとかなるだろう」という程度のものに過ぎないのだが。しかし、私の「なんとかなるだろう」という期待は、わずか一年、たった15話で、脆くも崩れ去ったのである。
このあたりが、「アマチュア物書き」の悲しさである。まあ、「ネタが無ければ書かなきゃ良い」という「アマチュア物書き」の気楽さでもあるのだが。これが「プロの作家」なら、「何がなんでも締め切りに間に合うように、文章を作り出さねばならない」んでしょうねぇ。そこが「プロ」の「プロ」たる所以なんでしょうけど。
ところが、こんな私の駄文でも、楽しみにしていらっしゃる奇特な方がいらっしゃるらしい。
たぶんいらっしゃるだろう。いらっしゃるんじゃないかな。いらっしゃると思いたい…。
もし、そんな方がいらっしゃるのなら、物書きのプロだろうとアマチュアだろうと、やっぱり何がしか皆さんの期待に答えねばなるまい・・・というわけで、自分なりの表現で精一杯書かせていただきますので、どうか読んでやってください。そんでもって、私の駄文をほんの少しでも楽しんで頂けたら、私もハッピー、あなたもハッピー・・・。
と、ここまで書いて気がついた。これは太鼓の演奏も同じではないだろうか。
「プロ」みたいに鍛えられたテクニックで観客をうならせることはできないし、演出だって洗練されたものではないけれど、私たちの演奏を期待してくれる奇特な方がいらっしゃるのなら、『見て楽しかったわ』といっていただけるように、精一杯気持ちを込めて演奏させていただきますので、どうぞ見てやってください…っていうのが、「お客様に失礼の無い」演奏なのだ。たとえ「まったくミスの無い」演奏をしても、ロボットみたいに無表情で気持ちの入らない演奏だったり、「恥ずかしいから私を見ないで」っていう気持ちの演奏だったりしたら、それは「お客様に失礼な」演奏になっちゃうんだろう。
たぶんそこには「プロ」も「アマ」も関係なくって、きっと「私を見て!見て!」っていうのが、
良い演奏の必要条件 なのかもしれない。 (充分条件でないことは確かだが…) (2000年10月04日)
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恐ろしい
にをかくそう、私は、『太鼓打ち』であると同時に、『ホラ吹き』である。じゃなかった、『篠笛吹き』である (私は法螺貝は吹けない)
お囃子では『笛』は花形である。「笛があればこそ成り立つ」という曲も多い。ほとんどが「リズム楽器」で構成される中で、数少ない「メロディ楽器」である。一本の篠竹の一方をふさぎ、横に穴を空けただけの、シンプルな構造の楽器が奏でるその音色は、多彩な表情を作り出す
(上手な人が吹けば…)
ところで、『太鼓』は度胸を決めて桴を振り下ろせば音が出るのだが、『笛』は度胸を決めて息を吹き込んでも音が出ないことがある。これは焦る。
『いざ本番』というときに、最初の一音が出ない…となると、頭の中はパニックである。冷や汗は吹き出し、唇はカラカラになる。吹き出した冷や汗が下唇の下に溜まり、笛を滑らせる。乾いた唇は息漏れを起こす。ますます音は出なくなる。こうなると、悲惨な結果が待っている。たとえそんな事態になっても、演奏は進行していく。かくしてステージ上にて、「音が出ないまま、笛を構えて悪戦苦闘する、憐れな姿」を晒すこととなる。
『笛』というのは、なんとも
恐ろしい楽器 である。 (2000年07月12日)
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ハプニング2
前にも書いたが、演奏本番では、何かとハプニングが起きる。実は、
第9話のハプニングには、「予兆」があった。
時は第9話事件のちょうど一年前、場所は第9話事件と同じイベントのステージ上、主人公は第9話事件と同じAさん
(男性) 。その時、演目は『ぶちあわせ太鼓』だった。
「ソロ打ち
(一人一人が自分のリズムを打つ) 」→「早変わり (基本リズムを素早く交代しながら打つ) 」と構成が進み、「押し出し (肩をぶつけ合って、前に打っている人を押し出す) 」へとさしかかった。予定では、私が打っているところへ、Aさんが「パッと法被を脱いで、ぶつかってくる」筈であった。
ところが、なかなかAさんが来ない。ふと見ると、舞台隅でなにかごそごそやって居る。「オイ、どうしたんだ…」と、ちょっとだけ不安な気持ちになる私。そうこうするうちに、やっとAさんが法被を脱いでぶつかってきた。勢い良く押し出される私。無事に『ぶちあわせ太鼓』は進行した。
後でAさんに聞いたら、彼は法被の帯がなかなか解けず、悪戦苦闘するうちに、間違ってキマタの紐を解いてしまったんだそうな。
なお、重ねて本人の名誉のためにも付け加えておくが、彼は決してキマタを脱ぎたがっているわけではなく、こんなハプニングに遭遇しても、脱げかかるキマタをものともせず最後まで打ち続けた。
余談であるが、私は『
二度ある事は三度ある 』という諺が現実のものにならないことを、切に祈っている。 (2000年05月08日)
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テンポ
いまいな伝聞記憶で申し訳ないのだが、「日本の太鼓はいつごろからあるのでしょうか?」という問いに、某有名作曲家が明快に答えたそうだ。「それは『太古の昔から』です」。私はてっきり『太鼓う (太閤) 秀吉の時代』かと思っていたが…。などと、「太鼓のあれこれ」に思考を巡らすときのBGMは、やっぱり『タイコフスキー (チャイコフスキー) がふさわしい。もちろん、その時の食事は『囃子ライス』に『からしめん太鼓』が似合うだろう。
ところで、演奏をしていると、よく「どんどんテンポが速くなる」ことがある。いわゆる『走る』と言う状態である。太鼓の場合には、西洋音楽みたいに『四分音符=』のようなテンポ指示はないのだから、もともとが「曖昧」と言えばそれまでなのだが、それにしても「きちんと打ち込める速さの限界」を越えてしまうと、結果は惨澹たるものになる。本番のときには、演奏を中断するわけにもいかないし、「オレのテンポは正しい」などと我を張ってバラバラな演奏になってもいけないので、どんなに走ろうが「大きな音を出している人」にあわせるしかない。「ノリ」とか「勢い」とかも大事にしたいし…。
しかし、練習の時には、「地打ち」や「鉦」が「ちゃんとしたテンポ」を刻み、それにあわせて打つ。これが結構大変である。とくに「ゆっくりしたテンポ」で打つほど大変である。世の中に『絶対音感』ならぬ『絶対テンポ感』を持つ人がいるのかどうか知らないが、私は特にテンポ感がいいかげんである。「だいたい、人間のテンポ感なんて、心臓の鼓動の速さに影響されるんだ」などと開き直っていたりする。開き直ってばかりでは練習にならないから、一所懸命「鉦」の音を聞き、テンポをとる。そういえば昔、そんな映画があったなぁ。『誰がために鉦は鳴る』…。
えっ!「こんなくだらない駄洒落を読むために、貴重な接続時間と接続料を使ったわけじゃない」って。許してください。ネタが無いんですぅ。
(2000年05月02日)
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ハレ
代、政治 (まつりごと) と祭事 (まつりごと) が同一だったころ、きっと太鼓の音は「為政者のもの」だったのだろう (無茶苦茶な推測その1) 。それは「神仏をこちらに振り向かせるための大きな音」であったり、「時刻や命令を伝達するための大きな音」であったのだろう (無茶苦茶な推測その2)
やがて時代が下がり、政治
(まつりごと) 祭事 (まつりごと) が分離するにつれ、太鼓の音も民衆のものになっていったのだろう (無茶苦茶な推測その3) 。太鼓の音は、為政者にとっては相変わらず「時刻・命令の伝達手段」であったのだろうが、民衆にとっては限られた「祭」の間だけ「日常をはなれ」「神を呼び」「神の世界に近づく」ための手段だったのだろう (無茶苦茶な推測その4)
日本語には「ハレ」と「ケ」という概念があるそうだ。「ケ」とは「日常」、「ハレ」とは「非日常」だそうである。「毎日の生活・作業・仕事」、これは「ケの日」である。それに対し、「村の鎮守の神様の祭日」は「ハレの日」である。 単純に「特殊な日」というのでなく、「日常の苦しみから開放され、自らを神の領域にいざなう」という意味で「特別な日」なのだそうだ。 そして、祭の時に打たれる太鼓は、「拍子取り」の音だけではなく、「人々の心を開放させ、爆発させ、『ケの世界』から『ハレの世界』へといざなう」音なのだ。
(と、勝手に解釈している私。)
太鼓は「
お祭り 」だ。聞いて楽しく (=音楽) 、見て楽しく (=パフォーマンス) 、感じて楽しい (=まつり) 。太鼓を打つって事は、これら全ての楽しさを、体感し現すことだ。だから太鼓は楽しくって止められない。 (2000年01月26日)
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パフォーマンス
鼓は聞いて楽しく、見て楽しい。「見て楽しい」という事は、太鼓が「音楽」であると同時に「パフォーマンス」であるという事だ (おっ!言い切ってしまった) 。つまり、太鼓は「演じる」ものなのだろう。
太鼓を「楽しんで見てもらう」為には、演者自らが「楽しんで」演奏している必要がある
(おっ!再び言い切ってしまった) 。そしてそこに、「どうしたら、より楽しんで見てもらえるか」という、振り付けなり、構成なり、演出なりが加わる。
一流のプロならば、たとえば楽しさを表現しているときに、あるいは勇壮さを表現しているときに、その全身全霊をぶつけて演奏しつつ、なおかつ同時に、「私が今、太鼓を打っているこの姿形は、お客様にこう見えている筈だ」などと、もう一人の自分が冷静に分析しながら演ずる…なんて事をしているのかもしれない
(このあたり、推測モード)
残念ながら、私には、そんな力量はない。だがしかし、少なくとも「楽しい太鼓」を「自らが楽しんで」演奏することはできる。ついでに言えば、その「自らが楽しんで」いることを「自らの意志」で演奏すれば、きっとその「楽しさ」は見ている人に伝わるだろう。
日常会話の中で、言語で相手に伝える時だって、「借りてきた言葉」では相手に伝わらない。自分の表現なら、きっと相手に伝わる。太鼓だって同じだ
(おっ!三度言い切ってしまった)
「教えられた振り付け」でもいい。曲全体の構成の中で「ここは、この形で揃えよう」って部分も有る。演出上の動作もあろう。でも、その動作が「指導者にこう言われたから、こうする」って言うんじゃ、いつまでたってもそれは「他人の言葉=太鼓を打たされている」にすぎない。練習を重ねていくなかで、自らの頭脳で自らの意志を持って動き、自らの気持ちと動きを一体化させたとき、いままでと同じ動作が突然「自分の表現」に転化する。その違いは、演奏の中のちょっとした動きや、打たずに構えているときや、全力で打っているときや、表情や…、きっと演奏の全体に現れる
(おっ!またまた言い切ってしまった)
重ねて断言する。太鼓は「
パフォーマンス 」である。太鼓は「 打たされるもの 」ではなく、「 打つもの 」である。 (と、偉そうな事を書いてしまったが…、はたして本当に私は『太鼓を自ら打って』いるのだろうか…) (1999年11月24日)
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太鼓症候群
なたはいくつ当てはまりますでしょうか?
●車の中のBGMは、もちろん太鼓のテープやCD・MDだ。
●車を運転中に、信号待ちになると、ハンドルを指で叩いてリズムをとっている。
●マイカーに太鼓関係のステッカーが貼ってある。
●常に桴を持ち歩いている。あるいは、車の中に桴が常備してある。
●音楽を聴いているときに、ふと気が付くと、歌詞やメロディよりもドラムやパーカッションの方に気が行っている。
●散歩の時に、太鼓曲の口唱歌を口ずさんでしまう。
●太鼓の音が聞こえてきたら、何をさておいても駆けつける。
●わざわざ、太鼓(演奏)を見るために旅行したことがある。
●夢の中に、スポットライトを浴びて太鼓ソロ打ちをしている自分が出てきたことがある。
●行儀が悪いと思いつつも、つい、箸で茶碗を叩いてしまう。
●『My太鼓』を持っている。
●太鼓公演鑑賞チケット代が、家計を圧迫しそうになったことがある。
●自分のスケジュールは、『太鼓』最優先で組まれている。
●友人はすべて太鼓の人脈だ。
●週に一度は太鼓を打たないと、身体の調子が悪くなる。
●ホームセンターやDIY店で材木を見ると、桴の材料に見えてしまう。
●欅の大木を見ると、太鼓の胴に見えてしまう。
●牛を見ると、太鼓の皮に見えてしまう。
●太鼓サイトを探して、ネットサーフィンをした。
●「たぶん更新されていないだろうなぁ」と思いながらも、このページを時々見に来ている。
一つでも該当する人は、太鼓症の可能性があります。全部当てはまる人は重症の太鼓中毒です。
(1999年10月26日)
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ハプニング
奏本番では、何かとハプニングが起きる (本当は、ハプニングなど起きてはいけないのだが…) 。『桴が飛ぶ』なんてのは良くある話で、『あるべき筈の物が無い』とか、『演奏中に太鼓が台からずれる』とか…。場数を踏んでくると、多少の事には動じなくなる。
『リズムを間違える』なんてのは、ハプニングのうちに入らない。素知らぬ顔で演奏を続け、『ノリ』と『勢い』でごまかしてしまう。そもそも『本番でリズムを間違える』などという事は、何も恐くない。その演奏曲を完璧に記憶しているお客さんが、ある特定の演者をずーっと注視しているときに、その演者がたまたま間違えたら、そのお客さんは間違いに気がつくかもしれない。でも、そんなお客さんは絶対にいない。間違えた演者が『いかにも間違えました』っていうしぐさをするから、お客さんは気がつくのである。たとえ1フレーズ飛んだとしても『これは新しいアレンジだ』というぐらいの気持ちで演奏すれば、どうという事はないのだ。『間違えないだろうか…』とビクビクして打つよりも、『間違えても良いんだ』と開き直って元気良く打つ方が、絶対に良い演奏になるに決まってる
(もちろん、『間違えない』にこしたことはないのだが)
ところで、先日起きたハプニングは久々のヒットだった。演奏曲は『野火』。この曲の演奏中に、Aさん
(男性) は、なんと「黒キマタ」が脱げてきたのだ。たぶん、紐の絞め方・結び方がおかしかったのだろう、ダイナミックな動作と共にだんだんキマタが下がってきて、ついに紐は完全に解けてしまった。幸い「黒キマタ」の中も『黒』を着用していたため大事には至らなかったが、Aさんのすぐ後ろで打っていたBさん (女性) は、笑いをこらえるのに必死だったそうである。さすがにこんなハプニングは、数ある『ぽんぽこ』の演奏でも『最初で最後』だろう。
なお、本人の名誉のためにも付け加えておくが、Aさんは、こんなハプニングに遭遇しても、その激しい動作を止めること無く最後まで打ち続けた。彼はまさしく
『ぽんぽこ』のカガミ である。 (1999年09月06日)
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ジレンマ
鼓というのは実に良くできた楽器で、とりあえず叩けば音が出る。音を出すために特別な訓練をしなければならない…などという事はない。そして、音が出れば楽しい。この楽しさは老若男女共通のようで、1〜2歳の幼児なんか、本当に嬉しそうに太鼓を叩く。太鼓はとても「とっつきやすい」楽器である。
ところが…である。「どうせ太鼓を打つのなら、もっと上手に打ちたい」と思う。プロの演奏を見ると、その演奏技術に感激する。「あんなふうに打てるようになりたい」と思う。だけど、プロと同じような鍛練は私にはできない。「毎朝5km〜10kmをマラソンし、半日筋力トレーニングし、半日太鼓を打ちつづける」なんてことは、絶対にできない。
(そんな根性も無い。だいたい、楽して上手くなろうというのだから、虫が良い。) では、どうするか? 答えは簡単である。『プロの技術を目標にするのは無理だ。もっと、自分たちが楽しもう。そして、自分たちが楽しんでいる姿を演奏で表現しよう』…。安易な結論といわれそうだが、私はそういう結論に達した。
ところがところが…である。太鼓を『表現するための楽器』としてみると、太鼓はとても「難しい」楽器である。メロディもハーモニーも無い。あるのはリズムだけである。曲の持つ「内容」でも、自分たちが表したい「楽しさ」でも、とにかく太鼓で何かを表現しようとすると、良い音・緩急・強弱・振り・表情・テンポ・リズム・アクセント・アンサンブル…、結局は技術が要求される。そりゃそうだ。10個の語彙しかない話より、100個の語彙の話の方が、よりアピールできる。自己表現しようにも「表現の幅」が狭ければどうしようもない。表現する楽しさを味わおうと思ったら、やっぱり技術が要る。
ところがところがところが…である。『技術こそ大事』としてしまうと、『ついてこれる人だけがやれば良い』なんて事になってしまう。でも、『アマチュアのサークル』なんだから、それはちょっと違うような気がする。音楽するって事は、みんなで音楽を作るって事は、表現する楽しさを味わうって事は、けっして一部の人だけのものではないはずだ。
そう、『
太鼓は音楽 』なのだ。『音』を『楽しむ』のだ。だけど『楽しむ』ためには『技術』が要る。でも『技術至上』では楽しめない。どこまでいってもきりがない。永遠のジレンマである。 (かたい話になってしまった…) (1999年09月04日)
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サークル
んぽこの正式名称は「太鼓サークルぽんぽこ」である。「太鼓」は皆さんご存知の『和太鼓』、「ぽんぽこ」は他と区別するための固有名詞。で、残った「サークル」はと言えば…。
誰が言った言葉か記憶が無いのだが、某有名人曰く『プロは結果がすべて。アマチュアは過程がすべて』だそうである。『プロ』は、常に最高の演奏を目指す。その練習過程がいかにドロドロしたものであろうとも、『演奏』という結果が良ければいい。自らの持つ最高の演奏を見せる事によって高い文化を世の中に送り出すのが、プロの使命だ
(…と私は思う。異論百出は承知)
一方、私たち『アマチュア』は、「いかに練習過程を楽しく行うか」という事に運営上の神経を使い、自らが楽しむ練習をする。その『楽しい』練習の結果、良い演奏ができればそれで良いし、たとえ自らの持つ最高の演奏ができなくても、それはそれで良い
(…と私は思う。これも異論百出は承知) 。もちろん、より良い演奏を目指して練習をするのだが。
メンバーそれぞれは、いろいろな性格の人がいるし、『太鼓』に対する思い入れも考え方も違う
(全員まったく同じだったら、恐いものがある…) し、仕事も生活も異なる。当然、いろんな問題も起きる。それでも『太鼓が好き』という一致点で集い、わいわいがやがやと、太鼓を通じた人間関係を作りながら、『太鼓ってこんなにおもしろいんだよ』『私たちは、太鼓を打ってて、こんなに楽しいんだよ』って事が表現できればいいな…と、練習やら演奏やらその他の行事に取り組んでいる。「ぽんぽこ」にとって、 『太鼓』は『目的』であると同時に『手段』 である。
と言うわけで、「ぽんぽこ」は、「太鼓演奏ユニットぽんぽこ」ではなく「太鼓サークルぽんぽこ」である。
(で、タテマエはともかく、実際はどうなのかと問われれば・・・・・・それは聞かないで欲しい・・・) (1999年09月03日)
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名前
たちのサークルは、『ぽんぽこ』という名である。ちなみに、トップページの背景になっている『8分音符と16分音符の組み合わせに「PON」「PO」「KO」の字が白抜きされた』ロゴマークは、1989年の発足以来使用している (色使いは、本ホームページ作成にあたり適当に付けた色ですが…) 。そして、他のページの背景となっている『ぽ』の字は、Tシャツの背中に大きくプリントされている。それはともかく・・・
ある年のこと、某サークル員
(仮名:Aさん) が友人 (仮名:Bさん) に、『一宮七夕祭り』での演奏を見に来てもらうよう誘った。Bさんは、どうやら『ぽんぽこ』の名前も正確な演奏時刻も聞いてなかったらしい。ずいぶん早い時刻に会場に着いたBさんは、ステージ横にある「出演タイムテーブル」をチェックしたそうである。 (ちなみに、『一宮七夕祭り』のステージは、1チーム30分の枠で、結構たくさんの太鼓チームが出る。) Bさんは、一生懸命にステージを観たそうであるが、ついにAさんの姿をステージ上に見ることはできなかった。
後日、Aさんに会ったBさんは、その旨をAさんに告げた。
Aさん:「えっ、見てくれなかったの? 『ぽんぽこ』の演奏…」
Bさん:「『ぽんぽこ』?
かわいい名前だから、子供の太鼓チームかと思って見なかった 。」
可愛い名前であっても、『ぽんぽこ』は大人のサークルである。
(1999年08月26日)
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消耗品
そらく他のサークルでも同じだと思うが、ぽんぽこでは、桴 (ばち) は個人所有としている。サークル員一人一人の力も手の大きさも腕の長さも違うのだから、当然と言えば当然の話であるが、桴が個人持ちであるもうひとつの理由は、「桴は消耗品」だからである。
練習中に桴を折る事がある。たいていは、うっかり「太鼓の縁に桴をあててしまう」のが原因である。「意図的な縁打ち」ではなくて、「おもいっきり面打ちしたときに、打ち方が悪くて縁にあたってしまう」という意味である。「腰が高くて打点が低い」
(打点が低い=平置きの中太鼓を打つときに、太鼓を打った瞬間の手の高さ位置が低い) という悪い癖を持っている私は、よく太鼓の縁に桴や指を当てる。挙句の果てに桴を折る。 (指の骨を折らないだけマシである。) 『桜』の桴は、使い込めば使い込むほど味の有る色に変化していく。味の出たお気に入りの桴を折ってしまったときは、やっぱりショックである。
『樫
(かし) 』のような堅い木の桴を使えば、桴の寿命は延びるのだろう。だが、私には重すぎるし、だいいち太鼓の縁に桴が当たったら、太鼓のほうが傷んでしまう。 太鼓を消耗品にするわけにはいかない ので、悪い癖のある私にとって、桴は意外と寿命の短い消耗品である。
ところで、桴は2本で一組である。1本が折れれば、もう1本は残る。残った桴の片割れは、桴袋の肥やしとなり、かくして桴袋はどんどん重くなる。
(1999年08月24日)
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手作り
鼓打ちの鏡と言われる人は、桴 (ばち) を手作りするものらしい。残念ながら私は子供の頃から工作が大の苦手である。木工旋盤や鉋や鋸など、とてもじゃないが使えない。だから、桴は太鼓店・太鼓ショップで購入している。
ちなみに私の場合は、締太鼓用が、『桧
(ひのき) 』のテーパー形状の桴、中太鼓用が『桜 (さくら) 』で太さ9分とか9分5厘とか1寸とかの桴、三宅を打つときは『朴 (ほお) 』の長桴、秩父屋台は『桧 (ひのき) 』の逆テーパー形状の太桴…といった具合である (こんなにいろいろ入っていると、桴袋が重いよー) 。サークル員の中には、『桐 (きり) 』の桴を使っている人や、『椎 (しい) 』だか『楢 (なら) 』だかの締太鼓用桴を使っている人もいる。 結局、桴の材質は「そこそこ堅くて、あんまり重過ぎなくて、ササクレが出ない…」ということで、内装建材や家具で使われる木材と共通するのだろう。
それはともかく、桴を手作りしない私は、太鼓屋さんに行っては『材質○○で、太さ△△・長さ☆☆の桴を、
1組だけ特注でお願いします 』などと注文する、お店にとってありがたいのかそうでないのか良くわからない客である。 (1999年08月23日)
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リサイクル
い胴は百年もつ。もちろん皮を張り替えれば…という話だが。そして、昔の太鼓はたいてい胴が良い。さらに、良い胴は皮の張り替えができる。
話は変わるが、太鼓は高価な買い物である。新しく創立した太鼓サークルなどでは「太鼓の購入資金をどうするか」がネックになることがある。
(ちなみに、もうひとつのネックは、「大きな音を出しても何処からも文句の出ない練習会場」である。) もしも古い太鼓を手に入れられるのなら、『新品の太鼓の購入価格』よりもずっと安価な『皮の張り替え価格』で、良い太鼓を所有することができる。
そこでお願いです。この文章を読んでいる神社・仏閣・旧家の方で、ご不要の太鼓があるという方がいらっしゃいましたら、けっして粗大ゴミに出そうなどと考えないで、お近くの太鼓サークルや太鼓店にご連絡・ご相談ください。
(もちろん、太鼓購入資金に余裕の有るところは、新品の太鼓を太鼓店・太鼓ショップから購入してくださいね。)
そのうち、
『ご不要になりました古太鼓がございましたら〜』 なんて軽トラックで巡回する商売が成立……するわけないだろうなぁ。 (1999年08月18日)
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えどchan
んぽこにはなぜか、古い一尺五寸長胴太鼓がある。さる知人の紹介でいただいた物だが、ぽんぽこで使わせていただくにあたって、皮の張替えに出した。新しい皮が張られて蘇った太鼓と共に、ポラロイド写真が送られてきたのだが、太鼓の内側に書かれた文字を写したその写真には、なんと江戸時代をあらわす年号が…。
この太鼓は、現代の長胴太鼓よりも全体的に丸っこく、なんとなく可愛い気がある。ぽんぽこのメンバーは、この太鼓を
えどchan と呼んでかわいがっている。
最近は、ぽんぽこ所有の太鼓も増えてきて、本番での出番が少なくなった『えどchan』だが、120歳を超えた今でも、まだまだ現役である。
(1999年08月17日)
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けやき
んぽこには、3台の一尺六寸長胴太鼓がある。一台目は前身の団体から引き継いだもの。2台目は結成2年目頃に会員でお金を出し合って購入した。このときは「どうせ高いお金を出して買うのなら、良いものを」ということで、『欅』の太鼓を買った。
ご存知のように太鼓の胴は『欅
(けやき) 』が良いとされている。胴には他に『栓 (せん) 』や『桜 (さくら) 』なども使われるが、口の悪い人に言わせると、欅以外は「雑木」と言われたりする。
(ちなみに、皮は雌4歳の牛の皮が最高級品だそうである。私は、皮の雄雌や年齢の違いなど、見ても聞いてもさっぱりわからないが…)

さらにそれから6年後、3台目の太鼓を買うことになった。このときは『栓』の太鼓を購入した。理由は予算的な問題が主であったが、決定となったのは、某メンバーの次の一言だった。
「そりゃ、確かに『欅』は良いよ。大事に使えば100年以上も使える胴だよ。でもね、
100年後にぽんぽこが存在している保証はないよ。」 (1999年08月07日)
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