WebMasterのmaroが独断と偏見でお送りする・・・
太鼓コラム
このページは、不定期に更新され、前へ前へと書き足されていきます。
初めて読む方は、ページの最後からお読みください。

目次
第1話〜第16話
第17話:味わい (2000/11/24) 第18話:口唱歌 (2000/12/22) 第19話:なれのはて (2001/03/13) 第20話:初めての経験 (2001/05/29)
第21話:プロとアマ (2001/08/21) 第22話:プロとアマ2 (2001/10/01) 第23話:あがる (2001/11/09) 第24話:巧い (2001/12/14)
第25話:縁起 (2002/01/11) 第26話:夢 (2002/03/25) 第27話:雨 (2002/05/17) 第28話:イメージ (2002/07/17)
第29話:縁 (2002/10/04) 第30話:一年の計 (2003/01/31) 第31話:あやしい (2008/01/30)

あやしい
すがに5年ぶりの更新だと、きっと皆さんに忘れ去られているのだろうなぁ…という今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。
最近、「新しい曲」を覚えるのに時間がかかる。原因ははっきりしている。練習に参加できないのだ。けっして「歳の所為」ではない。若い人たちが1〜2ヶ月で覚える曲を、半年近くかかって覚える有様なのだ。けっして「歳の所為」ではない。練習に参加できないぶん、通勤途中に楽譜を見ながら、口唱歌をぶつぶつ唱えながら、なんとかリズムを覚えようとするのだが、なかなか手強い。けっして「歳の所為」ではない。
ある日突然、ひらめいた。「目と口」で覚えられないのなら、「目と口と耳と手」で覚えよう。と言うわけで…用意したもの「デジタルミュージックプレーヤー」「楽譜入力ソフト」「オーディオ編集ソフト」
パソコンで、「楽譜入力ソフト」を使って、楽譜を入力する。そして、MIDIファイルで出力する。楽譜入力ソフトに付属していた「ソフトウエアシンセサイザー」ソフトで、MIDIファイルを読み込み、WAVファイルに変換する。「オーディオ編集ソフト」でWAVファイルを読み込み、音量調整などを行う。で、完成したWAVファイルを、「デジタルミュージックプレーヤー」に転送する。ふむふむ、上出来、上出来。「篠笛」は「フルート」で代用、「締め太鼓」は「メロディック・タム」で代用したので、いまひとつリアル感は無いが、「耳から覚える」には、じゅうぶん役に立つ。
で、電車の中で、時々紙切れを見ながら、なにかブツブツ言いながら、両耳にイヤホンを着けて、膝を叩いている、 あやしい オジサンがいたら、それは「新曲」を覚えている最中の私です。 (2008年01月30日)
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一年の計
新が遅延がちである。コラムも最初は頻繁に更新していたものの、「月一」になり「隔月」になり「三ヶ月」になり「半年」になり…やがて忘れ去られ朽ち果てていく…などという事にならによう、がんばらねば。
だいたい「一年の計」などと見出しを付けておいて、もう一月も終わりである。これでは「11ヶ月の計」ではないか…と、自分にチャチャをいれている今日この頃である。
そもそも、私は計画性の無い人間である。どれぐらい計画性が無いかと言えば、『見通しも無く、このコラムのコーナーを作ってしまった』というぐらい無計画である。そんな私だから「一年の計」などというものを、生まれてこのかた立てたことが無い。とは言っても、21世紀も三年目に突入した事だし、「何も無い」というのもなんなので、ここらで、ひとのすなる「一年の計」なるものを考えてみようか…
みようか…みようか…zzz
結局何も思い浮かばない。えーい、面倒でぇい。私の「一年の計」は『忘れ去られない程度にページ更新するぞ』……って、これだけ。
そんなシンプルで良いのか(^_^;)\('_')オイオイ…。……だって…昔から言うじゃありませんか。「一年の計は簡単にあり」って。
(2003年01月31日)
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に「縁は異なもの味なもの」とか「袖すり合うも他生の縁」とか、ちょっとした出会いがおもしろい事になったりする。いやいや、そんな大層な話ではないのですが…。
愛知県の地方都市で活動する「ぽんぽこ」が、長野県の太鼓イベント『山都楽頭祭』に参加させていただく事になったのも、不思議な御縁。「ぽ」のメンバー約一名が某講習会に参加した折、長野県飯田市で活躍する『大塚太鼓』さんとお知り合いになり、それがご縁で交流会を行っていただき、先方へお邪魔することになった。厚いおもてなしをいただき大感激をして帰り、それから数ヶ月後。ある日ある時、名古屋で行われた某演奏会の客席でまったく偶然にも「大塚太鼓」さんと出会う。「先日は大変お世話になりまして」などと挨拶を交わし、話をしていたら、「『ぽんぽこ』さん、山都楽頭祭に出るんでしょ」なんて言われて、何も知らない私は「目がテン」。(・・;)
後日、真相を確かめたら、飲んべの我が会長某氏は、前述の交流会のあとも、ちょくちょく長野県へ出かけては、酒を酌み交わしていたらしく、その席で「今度こんなイベントがあるけど出演してみない」と言われて、酔った勢いで「 出ます!!! 」。
そのおかげで、とっても素敵な「縁」がドンドン広がり、とっても楽しい太鼓生活を送らさせていただいてる「ぽんぽこ」です。
きっときっと、みなさんの周りにも、すてきな「エン」がいっぱいあるんでしょうね。こうして貴方がこの駄文を読んでいるのも、なにかの「エン」。そんな「エン」を大切にしていったら、きっと素敵な事が…。
特に日本では、「エン」はとっても大切なものなんです。「エン」が無ければ、日本で生活していくのは、まず無理でしょう。「エン」が無いと、買い物だって困ります。ドルやフランじゃ駄目なんです。 と言うわけで、皆様、これからも『ぽんぽこ』を宜しくお願いいたします。m(__)m
(2002年10月04日)
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イメージ
どの場合、太鼓演奏では「指揮者」がいない。もちろん「太鼓が数十台」とか「数百台」とか「演奏者が千人」とかになったら、指揮者無しでは音楽にならないだろうが…。
「指揮者がいない」ということは「指揮者がその場で演奏者に曲想の指示を出す事ができない」ということで、裏を返せば、「演奏者ひとりひとり」が「この曲はどんな曲か」「この曲のこの部分はどのように演奏するのか」を明確に意識していないと「楽曲」にならない。ある人が「和気あいあい」の雰囲気で打っているその隣で別の人が「喧嘩太鼓」のように打っていたり、ある人が「楽しいお祭り」の雰囲気で打っているその隣で別の人が「しかめっつら」で打っていたら、見ている人は戸惑うばかりである。
ということは、その「曲」に対して、演奏者全員が「イメージ」を持つ、あるいは「曲の中のこの部分」に対して「イメージ」を持つ、あるいは「部分の中のこのパート」に対して「イメージ」を持つことが、「演奏する」ということの上では、非常に重要な意味を持つ事になる。それはたとえば、「この部分は『嵐の前の静けさ』を表しているんだよ」とか、「深い山の中でしんしんと雪が降っている」とか、「豊年満作を全身で喜んでいる」とか、「雷鳴とどろき雨が降る」とか、「向こう岸の連中なんかに負けるものか!」とか、「合戦だ!オォ−」とか…。ようするに「こじ付け」だろうがなんだろうが、より具体的なイメージを持つことが、その曲を表現する事に直結していくのだ。
もちろん、その「具体的なイメージ」が、「太鼓の音」を通じて、見ているお客さんにストレートにそのまま伝わるかどうかといえば、おそらくそんな事はないだろう。お客さんはその演奏を見て、「まったく違うイメージ」を抱くかもしれない。しかし、お客さんに「何らかのイメージ」を抱かせる事ができたなら、きっとそれは「すばらしい」演奏になるにちがいない。だからこそ、「
こじ付け 」は重要なのである。「そんなのコジツケじゃん」と軽視してはいけないのである。
ところで、ぽんぽこのレパートリー『野火』は、早春に行われる「野焼き」をイメージした曲である。燃る炎が新しい生命を生みだすことをイメージしている。広い野原のあちこちで、小さな火が点火される。火は静かにチョロチョロと燃え広がっていき、やがて一つの大きな火となって、時には強く時には弱くパッパッと燃え盛る。さらに立ち昇る炎が絡まり乱舞する。でも、「はじめチョロチョロなかパッパ」だからといって、けっして「お米を炊いている」のではないので念の為。
(2002年07月17日)
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本には「四季」ではなく「五季」がある…と言った人がいた。『春・梅雨・夏・秋・冬』だそうである。なるほど一ヶ月も雨が続けば、これはもう一つの季節だろう。
それはさておき、太鼓に雨は禁物である。太鼓の革にとって雨とか湿気とかは大敵なのだ。まちがっても「酒を口に含んでブヮーッと吹きかけて」なんてことをしてはいけないのだ。 太鼓を保管するにあたっても、「革面を直接床に置く」などという、いかにも湿気を帯びそうな置き方はしないで、横向きにおいておいた方が良い…というぐらいである。 「雨雨降れ降れ〜」と歌い喜ぶのは、「〜母さんが」とはしゃぐ子供か、でなければ「〜もっと降れ」という演歌ぐらいのものである。
ぽんぽこも、基本的には雨の屋外では演奏しない。いくらステージ上に屋根があっても、搬出入の際に雨がかかるようではNGである。しかし例外的に「小雨決行」という場合もある。 お客様が小雨の中を集まってくれている・搬出入に支障は無さそうだ…となると、メンバーで相談・主催者と相談・空模様と相談の上、『決行します』という事になる。 できればそんな心配はしたくない。で、『
晴男 (ハレオトコ) 』『 晴女 (ハレオンナ) 』が貴重な存在となる。「大事な行事にあの人が参加すると、必ず天気が良くなる」という『晴男・晴女』は、太鼓サークルにとってかけがえの無い人材なのだ。もしも、太鼓打ちのあなたが「大事な行事にあの人が参加すると、必ず雨が降る」という『雨男・雨女』だとしたら、せいぜい「テルテル坊主」作りに励んでください。
ところで、「大事な行事にあの人が参加すると、必ず雪が降る」って人がいたら、その人はやっぱり『雪男・雪女』って言うんでしょうか?。
(2002年05月17日)
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フォークシンガーが「夢見心地じゃ生きられぬ、でも夢でも見てなきゃ生きられぬ」なんて歌っていたのは、今から20年ぐらい前の事 (この歌を知っている人って、少ないだろうなぁ…) 。まあ確かに、「夢」ばっかり追いかけていたんでは「現実」に足が付かず、かといって「現実」だけを追いかけていたら、厳しい現状に押しつぶされそうになる…なんてことはよくある話だったりするんですが…。
それはさておき、私も配偶者も「しがないアマチュア太鼓打ちの端くれ」だったりするのですが、ある日のこと、二人して同じ「夢」を持っていることに気が付いたのです。そして、その夢は「絶対に叶わない」というものだったのです。
いえいえ、けっして「夫婦で白日夢を見ながら太鼓たたいている」わけではないのです。さらには、「もっとメジャーになりたい」とか「世界的に有名な○○ホールで演奏したい」とか、そんな大それた事を夢見ているわけでもないのです。もっとささやかな夢なのです。ただただ、「一人の『お客さん』として太鼓の演奏を観てみたい、楽しみたい」というだけの事なのです。たったそれだけの事なのに、それは叶わぬ夢なのです。唯一にして最大の問題点は、その「観てみたい演奏」というのが………「自分がやっている演奏」だと言う事だけなのです。 えっ…ビデオがあるじゃないかって。でもやっぱりナマで観てみたいですよね、リアルタイムで観てみたいですよね、自分の演奏を。そう思いません?
(2002年03月25日)
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縁起
を溯ること数百年、尾張の国一之宮に祭太鼓を好む者集まりて徒党を組む。呼称決定に臨み、頭目の『長助』と名乗る者、土地の老住職に相談す。住職答えて曰く、永き世に渡り繁栄せよとの願い込め、目出度き言葉並べる……
無量寿経というありがたき経の中に、目出度き言葉、『寿限無』あり。
三千年に一度、天女が地上に降り、岩を撫ぜる。また三千年経つと降りてきて撫ぜる。何度も繰り返すと、やがて岩が擦り減って無くなる。これを「一劫」と言い、その五倍が『五劫擦切』。
海の砂利、水の魚、どちらも数えようとしても数え切れず。それほどにめでたき『海砂利水魚』。
水の行く末、雲の行く末、風の来る末、どこから来てどこへ去るのか分からない果てし無き物、仏法で言う「大宇宙」、広大無辺なるもの、『水行末雲行末風来末』
人が生きるにおいて一番大切なもの、衣食住欠かせず、『食寝処住処』。
「ヤブコウジ」は雪の中でも実を結ぶ、めでたき植物、『薮裏柑子薮柑子』。
昔、中国に『パイポ』という国あり。パイポ国王の名が『シューリンガン』、妃の名が『グーリンダイ』、二人の子ありて、この二人の子が百歳を越えて長生きをした。男の子の名が『ポンポコピー』、女の子の名が『ポンポコナー』。
長く久しき命、これに勝るものなし、『長久命』。
……かくて長助、ありがたき名前つらねて『じゅげむじゅげむごこうのすりきれ、かいじゃりすいぎょ、すいぎょうまつうんぎょうまつふうらいまつ、くうねるところにすむところ、やぶうらこうじやぶこうじ、ぱいぽぱいぽぱいぽのしゅうりんがん、しゅうりんがんのぐうりんだい、ぽんぽこぴいのぽんぽこなあのちょうきゅうめいのちょうすけ』と名乗る。
この故事にちなみ、長き名前の一部を抜粋し、『ぽんぽこ』は命名された…………………………………………というのは、真っ赤な嘘です。
(2002年01月11日)
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巧い
く耳にする言葉なのだが、「あそこのチームは巧い」とかいう表現がある。もちろん、反対の表現もあるわけで…。
この「巧い」という表現の中には、「技術的に高いレベルにある」という意味が含まれていたりして、『複雑怪奇なリズムを驚愕のスピードで演奏してしまう』とか、『筋肉ムキムキの身体で大太鼓を打ち続ける』とか、はたまた『千手観音ではないかと思えるほど、数多くの太鼓を打ち分ける』とか、およそ私のような輩には到底真似のできそうにない人たちに対し、羨望と賞賛を込めて「巧い」と言ったりしている私だったりしている。
さらには「巧い」という表現の中には、「表現力が豊かである」という意味が含まれていたりして、『指先まで神経の行き届いた動き』とか『キレのある動作としなやかな動作のコントラスト』とか、はたまた『実に自然な所作』とか、『真剣な眼差し』『強烈な笑顔』とか…
(あげたらきりがないか…) 、およそ私のような輩には到底真似のできそうにない人たちに対し、羨望と賞賛を込めて「巧い」と言ったりしている私だったりしている。
で、この「巧い」という事について、はたして『絶対的評価基準』があるのだろうか、あるいは『点数付け』は可能なのだろうか、はたまた「あそこのチームよりうちのチームの方が巧い」とかいうような『相対的価値』があるのだろうか、さらには、『あそこの会には負けたくない』などという意識に、はたして何の意味があるのだろうか…という論議はさておき、「より巧く、より巧く」を目指そうにも、上にはきりがなく、さらには、生活の僅か2%以下しか「太鼓」に時間を割かない私には、とうてい「巧い」という言葉は縁遠いものだったりするのだ。
まあ、とりあえず今のところ、「ぽんぽこ」のカラーとしては、「巧い」と言われるよりも、「巧くはないけど、味があるね」といわれる方が、最高の誉め言葉だったりするし…。
そうそう、そういえば「ぽんぽこ」だって『
日本一巧い 』、「野火」を打たせれば『日本一巧い』。だって「ぽんぽこ」のオリジナル曲だから、ヨソはやってない。 (2001年12月14日)
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あがる
あたりまえの事といえばあたりまえなのだが、「舞台」というものは、けっこう「あがる」ものである。
「あがる」というのは要するに、「『人から良く見られたい』という欲望と『間違えたらどうしよう』という不安とが過度の緊張をもたらす」という事で、それは誰にでもある当然の事象である。 かといって緊張し過ぎると、頭は真っ白になり身体は動かなくなり表情は硬くなり…と、あまり良い事は起こらない。
では、「緊張はすべて罪悪か」といえばさにあらず。よく「アマチュアは本番に強い」とか言われたりする。もちろん「アマチュア」だって「プロ」だって、「普段の練習でまったくできなかったこと」が「本番で突然できるようになる」なんて事は無いのだが、それはさておき、「本番」での「緊張感」が「集中力」を生み出し、お客様の反応とあいまって、練習の時にはオモテに出なかった「モノ」が出てくる…と言う現象は、特にアマチュアの場合には確かに存在するのだ。
まあ、「ありのままを見ていただければ…」とか「間違えたら間違えたとき…」とか開き直ってしまえば、そんなに過度に緊張する事もないとは思うが、かといって、あまり緊張感の無いのもねぇ…
(えっ…緊張感が無いというのは私の事だろうって…) 。やっぱり「適度な緊張」は必要なんですよ (自戒)
ところで、「緊張」はいつするかご存知でしょうか………答えは「夏」です。
(2001年11月09日)
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プロとアマ2
て今回のお題は…前回の続きである (「前回の『続き』なら、そんなに長く間を開けずに書け」という批判は、甘んじて受けます)
「プロ」の演奏は、そもそも「お客さんを楽しませる」ことを目的にしているのであるから、その演奏を観る我々観客は、たいていの場合、充分楽しむことができる。 とくに、「期待どおりのモノが来たときの満足感」と「期待を(良い意味で)裏切ったモノが来たときの意外性」とが共に得られるようなステージは、感動に溢れた最高のものである。
一方、「アマ」の演奏は…、当然「プロと同じように」とはいかない。そりゃそうである。技量だって演出だって、プロには絶対かなわない。 だから、「アマ」の演奏を観るときには、「プロ」の演奏を観るときと同じではいけないのである。プロのようなステージをイメージして、アマチュアのステージを観てはいけないのだ。
「アマチュア」は「アマチュア」なりに、「太鼓のおもしろさを伝えよう」と懸命に演奏しているのである。 どんな演奏にだって、そういう部分がきっとどこかにに出ているだろう
(…出ているに違いない……出ていると思いたい…) 。そんな部分を、「観る側が汲み取って」演奏を観れば、たとえ技量は不十分でも、その演奏を充分楽しむことができる。 もしかすると、「プロには無い、アマチュアならではの良さ」が見つかるかもしれない (そんなものがもしあれば…)
せっかく時間を消費して太鼓演奏を観るのなら、「つまらなかった」という感想を持つような見方ではなく、「観て良かった」という感想を持つような見方をしたい。 とくに、私のような「アマチュア太鼓打ち」が、アマチュア太鼓ステージを観るときには、「あっ、あそこを間違えた…」とか「なんやー、こんな程度の技量か…」とかいうような視点でなく、 「雰囲気がよく出てるよね」とか「なんか味があるよね」とか、どんな些細なことでもいいから、良いところや自分の勉強になるところを見つけて楽しむ視点を持ちたいなぁ…と思う今日この頃である。
そこで、お願いです。「ぽんぽこ」の演奏をご覧になるときには、ぜひともそういう「温かい目」で観てやってください…
(って、(^_^;)\('_') オイオイ...お客様に甘えてどうする…) (2001年10月01日)
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プロとアマ
さしぶりのコラム更新である。どれくらい久しぶりかと言えば・・・・・・この書き出しは前にも使った。
世の中には「プロ」と呼ばれる人たちがいる。私のような「アマチュア」から見ると、神様のような人たちである。ところで、そもそも「プロ」とはなんなのだろうか? そのことをもって生計を立てているから「プロ」と呼ばれるのか? それならば、「売れていなくて副収入の方が多い」人は「プロ」ではないのか? ノーギャラで演奏したら「プロ」ではないのか? いやいや、そうではあるまい。
仮に、関西のお寿司屋さんがいたとしよう。彼は関西生まれの関西育ちである。故に「納豆」は大嫌いである。見るのも嫌である。おそらく彼は、自分の空腹を満たすためには、けっして「納豆巻き」を作る事はないだろう。しかし、その彼がお客さんから「納豆巻き」を注文されたら、おそらく彼は最高の「納豆巻き」を作り、お客さんに出すであろう。それは彼が「プロのお寿司屋」であるからだ。「プロ」とは「他人の為に何かをする」人たちである。「自分を必要とする他人の為に、最高の仕事をする人」を、人は賞賛を込めて「プロ」と呼ぶ。
「プロの運転手」は「お客さんのために人や荷物を運ぶ」人であり、「プロの野球選手」は「ファンの為に野球をする」人であり、「プロのプログラマ」は「他人が使うプログラムを作る」人であり、「プロの太鼓打ち」は「見ているお客さんを楽しませるために、演奏する」人である。
逆に言えば、「アマ」とは、「自分の為に何かをする」人たちである。「アマの運転手」は「自分のために人や荷物を運ぶ」人であり、「アマの野球選手」は「自分の楽しみの為に野球をする」人であり、「アマのプログラマ」は「自分が使うプログラムを作る」人であり、「アマの太鼓打ち」は「自分が楽しむために、太鼓を打つ」人である。
しかし、しかしである。たとえ「アマ」であろうと、「他人様の前で演奏する」ということになれば、話は別である。
「演奏する」ということは「演奏者と観客」という関係が発生する。たとえ「アマ」であっても、「観客」を意識して演奏しなければ、見てくれている「お客様」に申し訳ない。もちろん、「プロ」のように「技量」や「表現力」で「お客さんを楽しませる」ことはできないだろうけれど、しかし、「自分が楽しんでいることが、お客さんに伝わる」ように演奏すれば、きっと観客の皆さんにも楽しんでいただける。
本番直前の練習では「はたして、気持ちがお客さんに伝わるのか」ということをチェックしながら練習したい。
「見ているお客さんに楽しんでもらう為に演奏する」…この
意識だけ は「プロ」と同じでいたいなぁ…。 (2001年08月21日)
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初めての経験
事ネタ・流行ネタは、後日読む人には実感が湧かないので、できるだけ避けよう…と思っていたのですが、やっぱり書かずにはいられない初体験でした。
とうとう、今流行のアレを経験することができました。先日、近所の大型スーパーの一角でアレを見つけたときには、思わず駆け寄り、しげしげと眺め、そして軽い緊張感を感じつつおもむろに………コインを投入。
そう、『太鼓の達人』です。(株)ナムコが2001年2月下旬に世に出した、アーケードゲームです。3ヶ月遅れで我が町にもやってきたのです。
(もっと前から有って、私が気づいていなかっただけのことかもしれないのですが。)
とりあえず「初めての挑戦」だからとということで、選んだのは「かんたんコース」の「炭坑節」。『うん、この曲なら知ってる』ということで、早速プレイ開始。
「あれ? 私がいつも叩いているリズムパターンより、ずいぶんリズムがシンプルだぞ。まあいいか…。」
「うーん、もう少しスピーカーのボリウムを大きくしておいて欲しいな…。テンポが取り難いや…。」
などと思いつつ、ゲームは進行。
「あれあれあれ、ここの左手、どうしてタイミングが合わないんだろう…。あっ!、このリズム、跳ねてない!!」
と気がついたのは、1コーラス目が終わり、2コーラス目に差しかかったとき。さすがにその後はノーミスでしたが、前半の「勘違い」が災いして、成績はギリギリでノルマクリア。うーん、目でタイミングを取るのって、意外と難しいもんですねぇ。
2曲目?? 選曲を迷っていたら、「アンパンマンマーチ」になっちゃいました。さすがにこれは、桴をつないであるヒモが途中で絡んでしまって打てなかった1音符を除いて、他にはミスはありませんでしたよ、はい。
総合成績??? 聞かないでください、恥ずかしいから。
それはともかく、友達連れで『太鼓の達人』に出会ってしまい、「おまえ、太鼓やってたよな、このゲームなら結構高得点出せるんじゃない?」などと言われるというような、恐ろしいシチュエーションが、あなたに巡ってこないとも限りません。そんな日の為に、密かに練習しておいた方がいいかもしれませんよ
(…って、私ゃゲーセンの回し者ではありませんけど) 。幸い私の場合は、ギャラリーがニョーボひとりだけでしたから、実害はありませんでしたが…。
ところで私は、たかがゲームなのにもかかわらず、しっかり腰を落し、腕全体を使って桴を大きく振り、汗だくになって打ってしまったんですが、これもやっぱり「
悲しい太鼓打ちのサガ 」でしょうか…。 (2001年05月29日)
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なれのはて
供たちが一所懸命に太鼓を打っている姿を見ると、心打たれる物を感ずるのは、きっと私だけではあるまい。子供たちが本当に楽しそうに太鼓を打っている姿、子供たちが可愛く太鼓を打っている姿を見ると、見ている私も楽しくなる。某超有名太鼓奏者が「子供は大人のミニチュアではない」とおっしゃったそうだ。言われてみれば確かにそのとおりだと思う。単に「大人の真似をしている」「大人に言われてやっている」太鼓演奏ではなくて、『一生懸命さ』でも『楽しさ』でも『可愛さ』でも、とにかく何か「子供たち自身が持っている良いもの」が、「子供たちなりのせいいっぱいの表現」で行われた演奏は、本当に素晴らしい (…と私は思う)
ところで、ふと思ったのだが、「子供は大人のミニチュアではない」のと同様に、「大人は子供のなれの果てではない」というのも真理ではないだろうか。「入門用の曲」とか「子供向けの曲」とかいう太鼓演奏曲ジャンルがあるのかどうかは知らないが、とにかく大人が太鼓を演奏するときに、「この曲はこう教えられたから…」といって、そのままの「振り」や「動き」を「一から十まで全て後生大事に守る」ってのもどうかと思ってしまう
(勝手に、そう思っているだけなんですけどね…)
もちろん、その「振りや動き」部分が、その太鼓演目を「特徴づける」部分であったり、その太鼓演目の「面白い」部分や「演出」部分であるのなら、それはとても大事にしなければならないのは言うまでもない。もしもそういった部分が抜けてしまったら、演目自体が「別の曲」になってしまう。だから、そういった部分は、演目の持つ「良さ」の部分は、「大人なりの最大限の表現」で目いっぱい引き出してあげるべきだろう。
しかし、その「振りや動き」部分が、「子供の可愛さを強調するために入れられた」部分であったり、「演奏する子供が太鼓に意識を集中するために入れられた」部分であったりするならば、それをそのまま「大人」がやってもねぇ…
(だいたい、私のような四十過ぎのオッサンがやったって、『可愛さ』なんて出るわけが無いし…)
もちろん「振りや動き」だけでなく、「アクセント」とか「強弱」とか「テンポ」とかといった事だって同じようなことが言えるわけで、それがその演目の特徴ならば、もっともっと大事にしなければ…
(以下略)
という訳で、太鼓を演奏すると言う事は、その演目に対する深い深い造詣が要るのだろうし、「リズムが簡単な演目ほど、表現するのが難しくなる」という事になるのだが、私にそんな高尚なものが有るのかといえば…
(以下略)
まあ、いずれにしろ、「太鼓って奥がふかいなぁ」と思う、今日この頃です。
(2001年03月13日)
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口唱歌
鼓の楽曲をどう記録するか…といえば、『楽譜』 (西洋音楽のような音符による表現) と『口唱歌』 (くちしょうが・「くちしょう」とも言うらしい) であろう。
「太鼓は、古来のものであるから、『口唱歌』で記録するのがスジである」という論議が正しいかどうかはさておき、とりあえず『口唱歌』というのは、便利なものである。 なによりもまず、楽譜が読めなくてもリズム覚えられる。ピアノ演奏を職業としている人などは「楽譜が丸ごと頭の中に入る」そうだが、私のような一般人はやっぱり口唱歌の方が覚え易い。 新しい曲を覚えるときは、手を動かしながら、同時に大きな声で口唱歌をとなえる。手と口と両方から頭に入れる。
もう一つの『口唱歌』の特徴は、「ニュアンスが伝わる」事である。たとえば、『八分音符一つと十六分音符二つが組み合わさった一拍が、4拍ある』
(音符で書けば簡単なのだが…) というリズムの場合、それが「屋台囃子の締太鼓」ならば『コットロ・コットロ・コットロ・コットロ』であるし、「ぶちあわせ太鼓」ならば『サントコ・サントコ・サントコ・サントコ』である。「八丈島太鼓」ならば『ドンドラ・ドンドラ・ドンドラ・ドンドラ』となり、「えのめ恵比寿太鼓」なら『一貫・三百・一貫・三百・一貫・三百・三百・三百』 (これは8拍だが) となる。もちろん「一貫三百が4.88kgという重さを表す」などという意味などあるわけも無く、それは単なる『言い回し』に過ぎないのだが、『コットロ』には『コットロの心』があり、『サントコ』には『サントコの心』があり、『ドンドラ』には『ドンドラの心』があり、『一貫三百』には『一貫三百の心』があるのだ。 (具体的にどんな心があるのか…などとは聞かないで欲しい。)
では、『口唱歌は楽譜に勝る』のかというと、それは違うと思う。『楽譜』には「世界共通表現」としての「記録性・再現性」がある。アクセント・クレッシェンド・デクレッシェンドやフォルテ・ピアニッシモなど、表現記号がある。『楽譜』なら四分音符は誰が見ても四分音符であるが、『口唱歌』で『ドン』と書いてあってもそれが四分音符なのか八分音符なのかは判らない。「ぽんぽこ」のオリジナル曲「野火」の中には、『オジサン・コロンダ・サントコ・ドッコイ』という『口唱歌』の部分があるのだが、これがどういう音符構成だかすぐに判る人はいるのかな…。
さらに『楽譜』ならば休符も記録できる。『口唱歌』で「2拍半の間
(ま) 」とか「4小節の待ち」を表現しようとしたら、結構難しいものがある。
とは言っても、1曲の中に出てくる全てのアクセント・強弱・速度変化などを全部楽譜に記述していたら、きっとその楽譜は記号が多すぎて、とっても読みづらい物になる事は想像に難くない。結局のところ、『楽譜』にしても『口唱歌』にしても、「忘れたところ・あやふやなところ」を確認して思い出す為の『単なる記録』でしかない。だいたい「振り」や「動き」まで楽譜で表現できるわけじゃないんだから…。と言うわけで、とりあえず私は「楽譜・口唱歌」併記派である。
そう言えば、「サントコドッコイ」は『ぶちあわせ太鼓』にも出てくる『八分・十六分・十六分・八分・八分』
(画像を使わずに音符が書けば判り易いのに…) という「2拍」なのだが、同じリズムが「水口囃子」では『天ツクツッ天』と表現されたりする (あるいは『天ツクスッ天』と表現されたりする。しかも、この『スッ』は休符ではなくて「打つ」のだ) 。で、わざわざ漢字で書いた『天』にアクセントがあるんだそうな。このあとリズムは「ツクツク天ツク…」と続いていき「…天天天ドンドンドン・天天天ドンドンドン・天天ドンドン天天ドンドン・天ドン天ドン天ドン天ドン…」。
そうだ、今日のお昼は「天丼」にしよう。
(2000年12月22日)
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味わい
れはもう、20年以上も前の話である。某TVで、「八丈島太鼓」が取り上げられた事があった。
当時の私は、「自ら太鼓を打つ」という事を行っていなかったのだが、なぜかこの番組を見た。その番組は、一人の『おばあさん』にスポットをあてて制作されたものだったが、その当時で、ずいぶんご高齢だったと記憶している
(たぶん、当時で90歳前後だったと思う)
残念ながら20年以上も経ってしまうと、番組内容については、詳細どころかアラスジさえも覚えていない。しかし、実にステキな「太鼓」だったという印象だけが強烈に残っている。
踊りの世界には、「60を過ぎないと、味が出ない」演目があると聞く。「力強い太鼓」や「速いテンポの太鼓」も素敵だが、「年齢が醸し出す、味わい深い太鼓」というのも、素敵なんだろうなぁ。
いずれにしろ私は、「力強い太鼓」や「速いテンポの太鼓」で「人をうならせる」には力量が足りなさすぎるし、「何十年も太鼓を打ちつづけた人だけが出せる、味のある太鼓」を打つには、経験が足りなさすぎる。それでもいつか、あの「おばあさん」のように「味のある」太鼓を打てる日が、もしかすると私にも来るかもしれない。
『ローバは一日にして成らず』ということわざもあることだし…。
(ちなみに私は男性です。だから老婆にはなれませんが…) (2000年11月24日)
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